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    2022. 12. 5

    安弁護士が商工クラブ10年間の公益活動を紹介

       11月29日(火)に上海花園ホテルで開催された日中国交正常化50周年、及び1982年設立の上海日本商工クラブ40周年の記念祝賀イベントで、弊所から安翊青弁護士が参加し、上海日本商工クラブが2006年から10年間の長期にわたり取り組んできた社会貢献活動について紹介しました。



       安弁護士は、上海日本商工クラブによる安徽省での愛心助学という貧困家庭の子供支援や希望工程小学校の建設などの支援事業に初年度から終了まで、歴代の商工クラブご担当者とともにかかわってきました。本事業は、「無私なる支援と率直な愛情」「厳格な仕事ぶりと強い責任感」と安徽省の受け入れ先から高く評価され続け、2015年の終了年には中国共産党青年団安徽省委員会と安徽省青少年発展基金会から「安徽希望工程25周年貢献奨」を、上海市希望工程弁公室と上海市青少年発展基金会から「突出貢献奨」を授与されました。

       2006年の小学校建設候補地の視察時は、事務局長、社会貢献委員長をはじめとする各社代表のみなさんと退勤後の夜に上海駅発の夜行列車のコンパートメントに飛び込みはじまる「番外委員会」の様子、馬車が走る駅前の未舗装の道、予定時刻を過ぎても終わらない真剣な意見交換で戻りの車がなくなりトラクターに揺られて山道を街に向かったことなど、当時の現地の様子とみなさんの苦労を紹介しました。



       「援助」には洋の東西を問わず「与える側」と「与えられる側」との微妙な関係が生じます。お互いの熱意がストレートに伝わらないこともあり、また、日本と中国の文化、習慣の違いもあり、苦労した様子も紹介しました。しかし、出迎えてくれる子供たちの笑顔は万国共通かもしれません。

       10年間に及ぶ長期支援で建設した小学校・施設は14になりました。馬車が走る未舗装の道はコンクリート舗装されて籾殻がまかれた道を貨物車が走るようになり、その後、タクシーが走るようになりました。商工クラブの支援内容も学校建設というハードからメンバーによる二胡の演奏披露などソフトの交流が生まれ、文房具や楽器の寄贈など企業独自の支援にも広がっていきました。




       上海日本商工クラブによる支援とはどうあるべきか、どのような支援が望ましいのか、歴代のみなさんが考え、行動してきた輝かしい事業を紹介できたことを光栄に思います。


    上海日本商工クラブ機関誌「上海明天」第72期に掲載された安弁護士の寄稿文




    上海日本商工クラブの中国での社会貢献活動
    安徽希望工程小学校建設支援の10年を振り返って
    ~希望の笑顔は国籍を超えて~

       中日国交正常化50周年ならびに上海日本商工クラブ設立40周年、おめでとうございます。
       上海日本商工クラブは法人格取得以前から上海をはじめ中国での無償の社会貢献に長年取り組まれてきました。特に、2006年から具体的に始まった安徽希望工程小学校建設支援は10年間に及ぶ長期支援となり、『無私なる支援と率直な愛情』『厳格な仕事ぶりと強い責任感』(劉俐京・安徽省希望工程弁公室副主任の言葉、以下同様)に、安徽省、上海市の関係者から高く評価されました。
       初年度から参加させていただき、歴代の商工クラブのご担当者の方々の熱意と汗、現地のご担当者、子供たちの真摯なまなざし、そこにはいつも希望に満ちた笑顔がありました。これらは私にとってもいまでも忘れることのない貴重な思い出です。
    今回、「上海明天」に当時の様子と、歴代の皆様のご苦労と熱い思いの一端をご紹介する機会をいただきましたことを大変光栄に感じています。

    夜行列車と馬車を乗り継いで山村へ
       「何をもっていけばいいの」「間に合うかしら」…
       2006年11月、2回目の視察にはじめて同行しました。その後、1年に2、3回、訪問することになります。みなさんは忙しい仕事を終えて、夜8時30分に上海駅南口軟座改札前に集合し、駅ホームに停車する9時13分発の緑色の寝台快速列車(緑皮車)に乗り込みます。曽我部裕行・事務局長、海津雅洋・社会貢献委員会委員長(役職は当時、以下同様)をはじめとする団員一行10名を載せて列車は横揺れしながら合肥を過ぎて翌朝7時30分に舒城駅に到着します。目的の建設予定地まではさらに数時間の移動が続きます。
       当時、外国人が集中して新しい日本料理屋も開店していた外高橋に勤務される梅津雅洋・社会貢献委員長(藤倉電子(上海)有限公司総経理)が、列車が上海駅を離れるとコンパートメント内においしい日本料理屋の焼き鳥を広げ、総経理同志が交流する「番外委員会」が毎回はじまります。私は緊張してろくに話ができず、安眠用に空けていただいている隣のコンパートメントに先に潜り込むのが常でしたが、毎回、この貴重な交流をとても楽しみにしていました。
       同年9月に事務局長、社会貢献委員長らが第1回目の視察をされたときには、寝台車を降りて乗用車の車中からたくさんの馬車を横目に目的地の六安市舒城県の小学校に向かったと聞いています。
       11月に舒城駅を出るとコンクリートで固められた白い路上に車に挽かれて脱穀するための米と籾殻が無造作にばら撒かれていました。駅周辺にはタクシー乗用車はなく、貨物ワゴン車がタクシー代わりの移動手段で、路上には点在する馬やロバの糞と、おそらく排泄物を飛ばさないようにとお腹に袋をぶら下げた馬を時々見かけました。第1回目の視察の時には馬車がたくさんいたと聞きます。
       第1校目となった六安市舒城県には翌2007年5月の訪問、9月の開校式、そして2010年6月の視察などで何度か訪問することになりますが、2007年の訪問時には乗用車のタクシーを見かけるようになり、2010年には2,3社のタクシー会社がタクシーを運行するようになっていました。町の様変わりの速さを実感しました。
       上海日本商工クラブが安徽省の小学校建設支援を決めたのは10月の2006年度第4回理事会です。8月の第3回理事会では「(上海に登記する商工クラブとして)上海地区に限るべきだ」「会員企業は中国全土を業務範囲としている」などの意見が紛糾したと聞きます。第4回理事会では、会員規模が北京より多く日本を代表する商工クラブであること、上海で活動する日系企業には安徽省出身者が多い、浙江省の西側に隣接し、フォローアップがしやすい、学校名に「上海日本商工倶楽部」と明記できることなどが判断材料となり、決定要因になったとのことです。
       中国では広く理解が得られる教育環境整備への支援であること、安徽省のGDPは周辺地域より低い、会員企業の職場・現場に相対的に安徽省出身者が多いのではないかを決定要因として、安徽省貧困地区で緊急を要する学校の建て替えを社会貢献活動として実施することになりました。
       こうした支援事業が適切であるのか、なにが望ましい支援なのか、ということをずっと考え、行動し続けられた10年だったと思います。『上海商工クラブの社会貢献活動の定義について、時間を掛けて話し合って決めた(意思統一した)ことが、その後の安徽省小学校支援活動につながっていったと覚えています。逆を言えば、あの時、みんなで定義をしっかり決めていなければ、その後の活動や、いままでの続く関係まで発展しなかったかもしれません』と吉川さんは振り返られています。
       毎回の開校式には商工クラブ理事長、社会貢献委員会と広報委員会を中心としたメンバー、事務局、日本総領事館領事らが出席し、安徽希望工程弁公室の劉俐京副主任、地元政府と教育関係者のみなさん、小学校の校長、先生方、年配の保護者の方々、そして多くの子供たちが出迎えてくれました。到着すると生徒たちが私たち一人一人に赤いネッカチーフを結んでくれ、毎回長旅の疲れが笑顔に変わります。歌やピアニカ演奏、ダンス、漫才などによる歓迎に包まれ、第一校目から第14校目までコクヨ貿易(のちの国誉(上海)企業管理有限公司)から寄贈いただいたノート2冊を毎回、生徒一人ひとりに配ったときの子供たちの笑顔も印象的でした。

    中日文化の違い
       初年度に決めた2校の開校を終え、2008年8月に3校目の開校を目指す安徽省北部の毫州市利辛県の小学校建設現場で基準に適った建設が進められているかの監査を実施しました。同じ安徽省でも初回に訪問した南部とは異なり、北部は人が多く、競争が激しく、貧しいながらにもプライドが高く、すこし頑固な風習があります。ですので、その後は、難しい北部ではなく、南部の学校が小さく、生徒が少ない、山中や田園地帯の学校建設を進めることにしました。
       中国では、視察に行くと鎮、村の役人が前面に出て対応します。同席する校長には発言する機会がほとんど回ってきません。日本の習慣では、「なぜ関係ない役人が顔を出すのだろう」と不審に思われたかもしれません。支援金が関わる事業ですから、きちんと学校建設に届くのだろうかと気にもなります。しかし、実態を確認し、「中国では政府が責任をもって監督することを示しているのです」と説明し、ご理解いただきました。
       また、日本側のメンバーが毎年変わるとまた同じような専門的な質問が積極的に投げかけられることになります。みなさまにいままでの経緯と経験をお伝えし、同時に、安徽省の受入側のストレスを少しでも軽減しようと試みてきました。私たちが訪問する前に掃除をしておいてほしいと希望工程弁公室に伝えることも、とても大事な連絡です。
       食べきれないほどの接待をしてくれることに、戸惑う人もいたと思います。馬車が主要道路から姿を見せなくなっていったように小学生たちの鞄や服は新しいものに変わっていきました。メンバーの中からは「ほんとうに貧しいのだろうか?」「支援が必要なのだろうか?」という疑問の声も出てきました。
       貧しいけれども十分な接待をして感謝を示したい。出稼ぎしている親たちは最低限の生活を続けながらも稼いだお金のほとんどすべてを子供に送りたいと思っています。決して表面的に見受けられる通りの豊かさではないのです。
       メンバーの皆様も、希望工程弁公室の皆様も、そうした説明や要望に真摯に向き合ってご対応いただきました。とても感謝しています。しかし、私の言葉だけの説明で100%の相互理解につながることはできません。
       たとえば、鹿島(上海)工程有限公司設計統括部長の小甲研二さんたち監査メンバーが真夏に汗まみれで新しい学校に通う子供たちのために予定された終了時刻を過ぎても詳細な厳しいチェックを続けました。中日共に日が暮れた中を農業用トラクターに分乗して街まで戻ったことも、相互の距離を縮めたと思います。安徽省希望工程弁公室の劉俐京副主任は、『上海日本商工クラブの皆様の愛心支援、及び仕事に対する勤勉さ、まじめさが私たちの仕事に対する熱意と責任感を一層引き出してくれました』と2015年に振り返っています。
       お互いの試行錯誤の中で、少しずつ相互に慣れてきて、企業が、個人が、学校建設を大事にするようになっていきました。初回から寄贈いただいたノートのほかに、多目的室の建築ではヤマハ楽器音響(中国)投資有限公司がキーボードを寄贈してくれました。こうした企業独自の支援も始まっていきました。
       そして、2009年の開校式には地元安徽省だけではなく上海日本商工クラブを管轄する上海市民生局の社会団体管理局の副局長と副所長も出席し、上海市の経済を支えている安徽省の市民への支援は意義があることだと、高い評価を得ました。

    二胡の演奏で思いを伝える
       そんななかで、心温まるもう一つのエピソードとして、総経理の皆様による二胡の演奏があります。『吉川俊介さん(社会貢献委員会委員、瑪魯哈公司上海事務所所長)の発案で小学校の学童のみなさんの前で二胡をご披露し、喜んでいただいたことは今でもよい思い出です』(高橋裕治・社会貢献委員会委員、丸紅(上海)有限公司総経理)と今回の寄稿に向けてご連絡いただきました。寝台列車の車中で二胡の練習していた高橋さんらの姿、現地にある子会社の従業員がいぶかしがる中で開校式前日に二胡の演奏に夢中になる総経理たち、そして、生徒の驚き、喜ぶ姿が忘れられません。
       高速鉄道に乗って3、4時間で合肥、六安までつながるようになると、合肥で日本人がつくった病院も視察し、この話を訪問先の小学校で伝え、感動を共有しました。

    ハードからソフトへ
       既に開校されている学校を訪問すると、校内は埃だらけで、ガラスが割れています。汲み取り式トイレにはハエがたかっています。運動場はコンクリートでけがをしやすい状態でした。『風が吹き抜け、屋根は傾きたわみ、仕上げ材が剝がれ下地材があらわになった天井や壁、割れている床…(略)…。その劣悪な環境にもとで、子供達が机の上に教科書を積み重ね、真剣に学ぶ…(略)…』。小甲さんは2008年当時の『胸が熱くなる光景』を語っています。
       2012年9月に2番目に建設した小学校の多目的室開設に訪問した田中基仁・社会貢献委員長(東芝電子(上海)有限公司総経理)は『テントの中に穴を掘って板を添えただけ』でごみが散乱したトイレ、児童数に対してたらない飲用水設備、教育者が子供を導くためのプログラム作りなど『ソフト面での対応の必要』も感じたと述べています。
       2013年には2010年に校舎建設を支援した学校の生徒数が200人から340人に増え、翌年には400人規模になる見込みということを知り、トイレの増築(当時、男子用3つ、女子用5つのみ)を、岡安明彦・社会貢献委員長(アルプス(中国)有限公司総経理)のもとで決定しました。
       つねにより良き支援に向けて試行錯誤と自己検証を続けてきた本事業は、時代の流れとともに変遷していきましたが、確実なことは、本事業を通じた日本から見た文化の違いが安徽省の様々な分野での向上を導いてきたことです。

    希望の笑顔は未来へと
       安徽希望工程小学校建設支援は2015年まで10年間続き、累計14校・施設を建設しました。その間に両国の関係は大きく揺れましたが、商工クラブの支援は変わらず、小学生たちの歓迎の笑顔も変わることはありませんでした。毎年新たな政策が打ち出され、社会が目新しい方向に向かう中国で、10年間大きく変わらずに支援を続けられてきたことは、歴代のご担当者をはじめ、商工クラブ会員の皆様の尽力によるものです。継続することが力であることを形にして示していただきました。
       2015年の終了年には、上海商工クラブの長年の堅実な貢献に対して、中国共産党青年団安徽省委員会と安徽省青少年発展基金会から「安徽希望工程25周年貢献奨」を、上海市希望工程弁公室と上海市青少年発展基金会から「突出貢献奨」を授与されました。
       夜行列車で片道9時間かけて訪問した上海から六安までの行程は、支援の後半には高速鉄道が開通して3、4時間で到着するようになりました。目まぐるしく発展する半面、夜行列車で往復していた当時を思い出し、すこし残念な気もします。
       いまも、コロナ禍のなかでも日本を訪問したときには、当時のメンバーの人たちとの交流が続いています。私を含め、安徽希望工程小学校建設に携わったみなさんは、商工クラブを通じ、個人ではできにくい社会課題の解決に携わることができたことを大きな喜びに感じられていると思います。
       長旅につかれてたどり着いた小学校で子供たちの喜びに満ちたまなざしに触れて笑顔が広がるように、これからも中日友好が途切れることなく、新たな50年に向けて、そして上海商工クラブの100周年に向けて、繋がっていくことを願っています。

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